記憶と記録

雑記、詩、遺書

 

誰かを嫌うという行為はわたしにとってはひどく面倒なことなので、「あ、この人、ちがう」と思った場合には、わたしの世界からその人の存在を消すことで精神を保つようにしている。別に相手に対しては一切のアクションもとらない。ただ、精神的に無にするのである。相手も気付かないほど静かで、でも恐ろしく強固な無への転換。これは無意識的なもので、とにかく"違う人"は私の世界から消え、"無"になる仕組みが整えられているのである。

 

そんな無であるが、たまに形をもってぽっと私の世界に強引に現れることがある。それが、無を愛している人の存在を認識した瞬間なのだ。

 

 

わたしにとっては無でも、誰かにとっては愛であるその対象に、わたしは「人生だ」と思うのである。

 

出会ったタイミングや環境や立場が違えば、もしかしたら無も愛に変わっていたのかもしれない、いやそんなことはないか、いやいや、そういうこともあるのかも、そんなことを考えるのだ。

 

人生ってそういうことでしょう。自分が自分のままで、相手が相手のままで、それでも出会い方が異なれば、相手を愛することも、相手を憎むこともできる、そういうものなんでしょう。

 

 

わたしの愛する友人が、「無の人」と何気なく関わっていることを知っても、仕方ない、仕方ないんです。人生とはそういうものですし、自分以外の全ての他人に対して、言葉や行動や思想を「こうであってほしい」と一切も求めてはならないし、求めるべきではないんです。