記憶と記録

雑記、詩、遺書

おばあちゃん

おばあちゃんが息を引きとった。

8月10日13時10分。

 

その前日

素性の知らぬ男と酒を交わし

知らない駅の待合所で

意識を取り戻したのは私。

 

酩酊しながら家路につき

ベッドの上でただひたすらに

恥晒しの我が人生について思いを馳せていた。

ところだった。

 

「おばあちゃんが死んだ。職場に電話しなさい。恐らく明後日が葬式で、仕事を休まないといけないだろうから。」

 

音だけが先に耳へ届き、意味が脳へ到達するまでしばらくの時間を要した。

 

私にはおばあちゃんとの思い出があまりない。

親族特有のコミュニケーションのそれが苦手で、おばあちゃん家に行かなくてはいけないお盆や元旦はいつも憂鬱だった。

 

今でも、おばあちゃん家に向かう道路を通ると、胸がきゅっと縮まる思いがする。体は心よりも正直だとその時だけ考える。

 

 

思い返せば葬式など物心がついてからは初めてのことだった。

父方の祖父母は私が私であると認識する前に死んでいたし、母方の祖父は知らぬところにいるし、それ以外の親戚付き合いは全くといっていいほどなかったので、親戚が生きようと死のうと私には関係のないことだった。友人・知人も数人この世を去っていったが、どの人も葬式に行くような間柄ではなかった。

 

 

人が死ぬとはどういうことだろう。

 

焼かれて灰と骨だけになった祖母をみた。

骨を箸でつつくと、ほろほろと崩れた。

叔父はそんな祖母をみて「せんべい。おばあちゃん、せんべいになっちゃった。」と言った。

 

 

泣く資格などないと思った。

通夜も、葬式も、鼻を啜る声も、母のたまらない表情も、なにもわからず走り回る2歳の姪も、消えた肉体も、集った多くの知らない人々の影も、その全てが私を動揺させ、困惑させ、苦悶させ、感動させたが、泣くことなど許されないと思って、掌を強く強くつねりつづけた。

 

 

 

小学六年生の運動会、わたしは応援団の団長をした。あの青い青すぎる日々を思い出す。運動会当日、おばあちゃんが見にきてくれていた。その写真が葬式場に飾られていた。からだの悪いおばあちゃんがわざわざ見にきてくれることのありがたさを当時のわたしは知らない。

 

中学生の頃に学校に通えなくなった。勉強もしないで、家に引きこもってゲームばかりしていた。将来などあって無いようなものだった。さまざま声をかけてくれる人がいて、それはそれでありがたいことだった。けれど、その時何よりありがたかったのは何も言わないでいてくれることだった。おばあちゃん、私が会いに行った時も、何も聞かず、ただ温かく微笑みかけてくれてありがとう。

 

 

 

宇宙から考えれば、人ひとりなど極めてちいさなちいさな存在であり、50kgに任せられたその魂に、ひとはあらゆる憂いと慈しみを抱き、そんな人間という不可思議な生き物のことを、わたしはデタラメに愛してる。