記憶と記録

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希死念慮を至って真面目に考える

希死念慮がある。

こんなことを言うと、病んでるのかとか何か悩みがあるのかとか暗いだとか重いだとかメンヘラだとか思われる(し実際に言われたりする)けれど、わたしにとってそれはものすごく普通の当たり前の日常の普遍的なことで、ただ、そこに希死念慮があるというそれだけのこと。

 

わたしの身長は女性の平均よりも少し低く、それは生まれ持ったもので己の意志とは関係なく決定されるいわば運命的なものだけど、わたしの希死念慮もそれと全く同じなのだ。ただ、そういう風にして、産まれた。希死念慮がある人間として産まれた。そこに病みも悩みも悲しみもクソもない。

 

退廃的な人生を送ろうと輝かしい人生を送ろうと、死んだらすべてが無になるのだしたら、なんだよ人生、と。

 

たとえばわたしが人類史に名を刻めるような才をもって生まれたとしたら、たしかに生きることで後世の人間のために生涯を捧げるというのも選択肢としてはあるのかもしれないが、現実問題そんな才能は持ち合わせてはいない凡人として生まれたし、そもそも結局死んでしまえばその人類史がどんな動きを見せようと知ったこっちゃない話でもあって、はい、なんだよ人生。

 

 

ただわたしは生憎なんだか気使いの人間であるようで、自分のせいで他人を悲しませることをひどく嫌っているので、死ぬことで誰かを悲しませたり、最悪他人の人生をぶち壊したりしてしまうのは本当に避けたいことなので、まあ生きるか、とその程度の心持ちで生きている。

わたしにとってわたしの人生はどうでもいいものなのだけれど、こんな人間をあたたかく見守り育ててくれた両親への恩や不器用ながらも寄り添ってくれた兄弟への感謝や親しくしてくれたすべての友人たちのことは、死んだらまあ無だから知らねーと無下にできるようなものでは、決して、決して、ないので、生きている。

 

ただ、基本的にはわたしはいつだって死にたいきもちと共生しながら生きているし、こんな話をすれば大抵かなしい顔をされて申し訳ない気持ちになるが、ごめんこればかりはわたしにもどうしようもないのだ...わたしとて本当は身長が160cm欲しかったし死について考えない人生というものを一度生きてみたかったと思う、でもそんなこと言ったとて現実が変わるわけではなく、ごめんなさいと思いつつもでも仕方ないんだ解らなくていいから許してくださいと、そう考えながら、ただこの人生というものを生きてみている。

 

わたしの希死念慮はこのようなものです。

死にたくなったら電話して、を読んで、どうしても書きたくなってしまったんだ。