記憶と記録

雑記、詩、遺書

22歳はまぼろしだと思ってた

22歳になった。なまえの後ろに続くのは、頼りない(22)という表記だ。

 

22歳はまぼろしだと思ってた。

いつだったか、遠い昔、でもものすごく近い時代のこと。あの頃みえていた22歳という年齢は、とても大人びていて、大人になりたいと願う子どものわたしにはきらきらと輝いてみえたのだ。

 

21歳と22歳の女たちで集まったとき、「最近すぐに胃もたれがする。量も食べられなくなった」という話で共感の声が上がった。適当に頷くわたし。身体の衰えか。かなしい話だ。精神と肉体の年齢がどんどんと距離を離していく。わたしの心はまだ13歳のままなのだ。

 

ひとに怒鳴られてしくしくと泣いた。立っていられなくてうずくまって泣き続けた。わたしはまだ13歳だから。

 

大学に入学したばかりの頃、ひとつふたつしか変わらない年齢の先輩たちは、とても大人で、聡明で、美しく、手の届かない存在に思えた。大学四年生。三年前と何も変わらないわたしは、いま、その立場に立っている。

 

年齢を重ねるというのは、精神的成熟を意味しないのだということを理解し始めたのは、それはつまり、成熟したということなのかもしれない。

 

世の大人に対して、大人なのにな、と思った瞬間があったが、そうか、世の大人も皆、心のなかにそれぞれの子どもを宿しているのだとしたら、それは仕方のないことなのかもしれない。

みな、本当は子どもだけれど、大人のふりをすることだけが、少しずつ上手になってきているだけなのだ。

 

みな、助けて、おかあさん、助けて、と思いながら、わたしを愛して、と誰かにすがりながら、ただ、見た目だけが確実に一歩一歩老いへと歩みを進めているだけなのだ。

 

ずっとずっとこどものまま、愛を求めて生きているだけなのだ。