記憶と記録

雑記、詩、遺書

わたしのなか

会うと、あれ、ちょっと違うなと思う。

なんだかうまく言えないけどしんどいかも?と感じる。

あんなに会いたかったのに、会っている間は、もういいや...となる。

 

わたしにとって家族ってそんな感じ。

 

わたしは家族のことがほんとうに大切で、この世の何よりも大切で、いちばん失いたくないもので、第三者に無下に扱われると耐えられないほどの怒りが生じて、自分が今生きている理由というか、足留めのような存在でもある。

 

そんな家族だけど、たぶん、なんとなく、合わないんだろうな、と思っている。

 

最近になってようやく分かったことだが、家族といっても、他人は他人なのだ。違って当たり前なのである。気付くのに21年もかかってしまった。

 

家族なのだから、分かり合って当たり前だとか、家族なのだから、一緒にいて当たり前だとか、家族なのだから、仲良くあるべきだとか、そんなことは全然無い。

 

無いのだけど、やはりそういった固定観念、思い込みというのは無意識に形成されてしまうものなのである。

 

むしろその邪悪な固定観念によって現実とのギャップが生じ、よりくるしい思いをすることが多々ある、というのが実のところ。より、と言ったのは「自分と(親族以外の)他人」という関係性よりも、「自分と家族」という関係性の方が、不都合が生じた場合により重く苦しいものに感じられるということ。

 

 

わたしは空洞だ。

わたしの中にわたしはいない。

その代わり、母親の信念というか魂というか、まあそれに類したものがいる。ど真ん中で、あぐらをかいて座っている。

 

21年間、その正体は私自身だと思っていた。だけれど最近の例の気付きによって、その正体が私自身ではないと分かってしまった。

 

 

やはり、と思う気持ちもあるし、底知れぬ絶望感もある。安心感も、ある。

 

 

ただ、21年間、疑うことなく熱心に信じてきたものが崩れ去ったのは事実で、わたしはまだ、その事実を自分の中に落とし込めずにいる。