記憶と記録

雑記、詩、遺書

エンドロールの続き

きのこ帝国が活動休止を発表した。

 

好きな人は気が付いたら好きになっているもので、確かにその人のことが気になるきっかけとなった 言葉なり行動なり出来事があるにはあるけど、”気になる”と”好き”の境界はいつも曖昧で ハッとした時には もう抜け出せなくなってしまっている。

これは音楽でも同じで、好きなアーティストは気が付いたら虜になってしまっているもので、他の曲も聴いてみようと思うきっかけとなった曲はあっても 好きになる瞬間はいつも無自覚だ。

 

きのこ帝国もそうだった。

 

中学生の時、モバスペBOOKという携帯小説サイトにハマっていた。携帯小説サイトといっても 私が読んでいたのは 恋愛(実話) / エッセイ・詩集 / 美容 / 日記 くらいで、所謂携帯小説といって想像するようなものはあまり読んでいなかった。

中でも 日記 というジャンルが好きで、言葉や文章が好きだったこともあって 好きな文体の日記を見つけるとすぐに読者登録していた。

その読者登録をしている日記の中で 作者が好きなアーティストとしてきのこ帝国を紹介していたのが、私がきのこ帝国を知るきっかけだった(と記憶している)。

もしかしたら それはきのこ帝国ではなくて ゆらゆら帝国だったかもしれなくて、ゆらゆら帝国を聴いているうちに きのこ帝国も自然と知ることになったのかもしれないけど...。

記憶力がめっぽう悪いので...。

 

きっかけはたぶんそんな感じで、本当に、気付いたらどっぷりとハマってしまっていた。

特に好きだったのが『渦になる』というアルバムで、もう何度聴いたか分からない。

こういうとき、まだ音楽をテープで聴く時代だったら「テープが擦り切れるほど聴いた」なんて表現が出来て素敵なんだけど、CDはとても丈夫だし、何ならこの頃はまだCDを買うことに抵抗があってレンタルばかりに頼っていたから 借りてきたCDをパソコンに同期して データ化された音楽を聴いていた。近頃になってCDは買うようになったけど、それでもデータとしての音楽を聴くのが私の中の主流で、風情がないよなあと思う。

高校の友達にCDウォークマンを持っている子がいて、その子は学校にそれを持ってきて音楽を聴いていた。CDの時代は終わったなんてセリフをたまに耳にするけど、彼女がCDウォークマンを持ち歩いているのはやっぱり魅力的に思えたし、テープなりレコードなりCDなり 手にとって聴く音楽は、データとしての音楽とは違う良さがある。CDの封を開ける時のあのドキドキ、歌詞カードを見ながら初めての音に触れるあの瞬間、あれは他とは比べられない特別感がある。データを否定したいわけでも、CDを肯定したいわけでもないけど、それぞれ良さがあるよね〜っていう...これ何の話?

 

 

話を戻すと、そのレンタルに頼っていたあの頃、少しずつ色々なことが”分かる”ようになってきたあの時期の 生の意義や将来への漠然とした不安、自分の中に潜む恐るべき執念、エゴイズム。

渦になるは そういった奥底でフツフツと感じていた様々な心の動きが一つのアルバムになっているような、そんな気がした。

 

人生のレールから外れて家の中に引きこもっていたとき、平日昼間の外出は人の目が気になって苦手だったけど、夜ならそんなことを気にする必要もなくて、よくiPod touchだけを持って外に散歩に出かけていた。

その散歩中に、きのこ帝国をよく聴いていた。夜、外で一人 きのこ帝国を聴いていると、どこか別の遠い場所へ音楽が私を連れて行ってくれるような気がした。

街灯が等間隔に置かれただけの暗い田舎道を、イヤホンを耳にさして そこから流れてくる音にだけ意識を傾けるあの時間、自分の置かれた状況に改めて落ち込んだり 泣きそうになったり 何故か気分が良くて足取りが軽かったり、記憶は曖昧だけど あの時間は確かに美しかった。当時の自分からすれば、決して良いものではなかったのかもしれないけど(学校に行っていればあの散歩もしなくて済んだのだろうし)、ああいった自問自答の時間が無ければ 今の私はいないわけで、私を構成するパズルの大切な一つのピースだ。

 

 

そんな私は『猫とアレルギー』からきのこ帝国を聴くのを辞めてしまった。

私が知っているのは”あいつをどうやって殺してやろうか”から始まるような曲を歌う あのきのこ帝国で、猫とアレルギーはそれまでのきのこ帝国がまるで嘘だったかのように、明るくポップな路線へ変更していた。

悲しかった。ずっとそばで支えてくれていた人が、突然じゃあねと言って 別の世界へ行ってしまったような孤独を感じた。

猫とアレルギーはとても人気が出た。それまで彼らを知らなかった人たちが 知っていたけど関心を示さなかった人たちが きのこ帝国良いねと口を揃えて言うようになった。それもまた悲しかった。やっぱり私が生きる世界や感性は、理解されにくい、評価されにくいものなのかもしれないと落ち込んだ。

 

 

2018年9月にきのこ帝国が『タイム・ラプス』をリリースした。夏休みだったし心に余裕があったのかもしれない、Apple Musicで手軽に聴けたからかもしれない、理由は分からないけど、何となく聴いてみようという気になった。(ちなみに猫とアレルギーとタイム・ラプスの間にも愛のゆくえというアルバムがリリースされてるけどそれは上記の理由で聴こうとすらしなかった...)

 

それでこの、タイム・ラプスが、

めっちゃくちゃ良かった。驚いた。

方向性としては 猫とアレルギーの延長という感じで、あくまでポップ、決して初期きのこ帝国のシューゲイザー感のある音楽に戻ったわけではなかったけど、ストンと私の中にきのこ帝国が入ってきた。猫とアレルギーがリリースされた頃から 私の中で何かしらの心の変化が起きていたんだと思う。驚いて、猫とアレルギーを改めて聴いたら、これまたびっくり。めっちゃくちゃ良かった...。なるほど、なるほど、これは良い、良い...と一曲一曲噛み締めながら聴いてしまうほどに。どうしてあの頃この良さに気付けなかったんだろうと少し自分を責めた。今でも好きなアルバムを挙げるなら『渦になる』になるけど、「猫とアレルギー良いよね」と言われたら何の躊躇いもなく「わかる、好き!」と即答できる。それくらいには 最近のきのこ帝国の音楽も好きになれた。

 

きのこ帝国のアルバムを一通り聴いた人なら分かると思うんだけど、きのこ帝国はマジでアルバムごとに色が違いすぎる。多分、最近のきのこ帝国しか知らない人にeurekaを聴かせたらひっくりかえるとおもう。

それくらい変化してきたきのこ帝国なんだけど、私は 渦になる→タイム・ラプスまで(言ってしまえばきのこ帝国というアーティストそのもの)がひとつの作品のように感じている。きのこ帝国の楽曲は全てボーカルの佐藤千亜妃さんが作詞作曲をしているんだけど、順にアルバムを聴いていくと佐藤千亜妃さんの人生を覗いているような感覚に陥る。そしてまた、自分の人生かのようにも感じる。ずっと幸せが続くなんてことはないし、悲しい出来事も少しずつ風化していく。ブランコを漕いでいるような、浮き沈みのあるものが人生で、そう考えると、このアルバムごとに色が違うことにも納得ができる。

 

 

佐藤千亜妃さんがツイッターでこう言っていた。

佐藤千亜妃Official on Twitter: "タイム・ラプスは、過去作を否定する作品ではなく、過去作を肯定する作品だよ。渦になるも、eurekaも、ロンググッドバイも、フェイクワールドワンダーランドも、猫とアレルギーも、愛のゆくえも、全てが今に繋がっていて、どれかひとつでも欠けたら「タイム・ラプス」は生まれてないんだ。 佐藤千亜妃"

 

 

私は、タイム・ラプスの続きがみたかった。

その先にどんな人生が待ち受けているのか知りたかった。

今はただ 悲しくて、寂しくて仕方ないです。

 

「親と子」「入口と出口」一方が無ければ存在し得ないもの、一方が存在すれば確実にもう一方も存在するものに 「終わりと始まり」も含まれるものだと思っていた。けど違った。きのこ帝国の終わりは、終わりでしかない。

 

好きなアーティストたち、どうか永遠であれ...。