記憶と記録

雑記、詩、遺書

作品に罪はないのか

音楽が好きだ。

 

別に詳しくもないし、聴くジャンルの偏りもひどいが、そんなことはまあ置いておいて、わたしにとって音楽は命の次に大事なものだ。

 

これまでの人生を思い返したときに、音楽がなければわたしは死んでいただろうなと、誇張でもなんでもなく、ふつうに、そう、思う。

 

 

救われた音楽というわけではなく、生活を彩るもののひとつとして、その音楽を聴いていた。

特別に好きというわけではなかったが、なんかいいよね、それくらいの感覚で聴いていた音楽はたくさんある。

 

そのひとつのアーティストが、実は過去にとんでもね〜発言をしていたと、つい最近の報道で知った。

 

最悪だった。

 

中学1年生の春、急に無視をされるようになりクラスの居場所がなくなり、唯一のオアシスだった部活動でお気に入りの筆箱をごみのように扱われたあの日からわたしは学校へ行かなくなった。

はたからみればいじりだったのかもしれないが、当時のわたしはいじめだと認識し、限界を感じたのだ。

 

あの人に今更謝ってほしいとかは全く思わない。むしろ謝らないでほしいと思っている。

一生反省しながら苦しみながら生きていってほしいとかも別に思わない。というかどうでもいい。

だけど、あの過去を完全に"無"にされていたとしたら。笑いのネタにされていたとしたら。それは。それはかなり。耐えられないものがある。

 

まるで当事者じゃないような顔をして。「はやく元気になってね。学校で待ってるよ!」そんな手紙をくれたあの人を思い出す。ああ、これが地獄っていうやつか。あの日のあの瞬間を思い出した。

 

 

わたしが何食わぬ顔をして聴いていた音楽は、(今はどうか知らないが)そういう思想が一時期的にでもあった人がつくったものだった。

 

自分が醜かった。ゆるせなかった。こんな音楽を聴いていた自分が。

 

 

でも、作品に罪はない、そういう意見も分かるのだ。

わたしもこれまでは割と"そっち派"の人間だった。不倫騒動があると作品が公開中止になったり、おいおい、観る観ないは自由だろう、公開してくれ、映画が観たいんだ、と思う自分がいたのだ。プライベートと仕事は分けるべきだろう、そう思っていた。だって、出演者が不倫してようがわたしには何ら関係ないんだもん。部外者。第三者

 

だけど、どうしてだろう、今回は、なんだかそんなふうに思えなかった。

 

くやしい。苦しい。どうしたらいいかわからない。怒りはない。オリンピックがどうたらとかは別にどうだっていい。ただ、ただ、自分が、ゆるせなかった。ゆるせない。吐きそうだ。

 

ぐちゃぐちゃとした、真っ黒なきもちが、胸の中で渦巻いている。

 

ああ、人生って、やっぱり地獄です。

どうすればいいんでしょうか...。

 

 

(ただ、こういった騒ぎが起きたときに、当事者に対して誹謗中傷をしたり度を越した行為を成すようなことはマジでいじめと何も変わらんので、ほんまにそこはよろしくたのみます)