記憶と記録

雑記、詩、遺書

なにかが異常なほどくるしくて

どうしようもなくくるしくて

ただただこわくて恐ろしくて

でも涙はただの一滴もこぼれず

22年間泣き続けて生きてきたから

もう枯れてしまったのだろうと思って

そんなかなしい人生のことを想って

そう、そういえばわたしはずっとつらかった。

そうだった、わたしはつらいんだ。

たすけてと叫ぶ声は空中で昇華され

まるで何も起こらなかったかのように

跡形もなく宇宙の彼方へ飛んでゆき

わたしは抜け殻となって崩れてしまう

 

わたしは立ち上がってキッチンへ向かい

マグカップに水道水を注いで一息にのみ

魂が既に死んでしまったことを悟られぬまま

客観としては日常の世界に戻っていく

 

それでも私の瞳は目の前の映像を現実的に捉え

それでも私の脳は目の前の映像を現実的に理解し

ただわたしの精神だけはわたしの身体を離れ

ぼやけた世界をぼんやりと泳ぎ続けている

 

相手の顔をじっと見つめ

相手の表情と自分の表情が噛み合うように調整し

ほどよい所でほどよい相槌を打ち

ほどよい所でほどよいコメントを残す

 

それでもずっとわたしの精神は

どこか別の遠い世界を一人旅し続けている

 

生きていくとはなんなのだろう

電線が地中に埋まってしまったら

つい1週間ほど前まで、わたしは確かに半袖を着ていたはずなのに、今日は裏起毛のスウェットの下にヒートテック(それも極暖の)まで着込み、それでも寒い寒いと嘆いている。

 

10月も終わりかけのある日、やさしいクリーム色の西日にほんのりと染められた電信柱を横目に、村上春樹を買いに行ったブックオフの帰り道を4年間くたくたになるまで使いこんだぼろぼろの自転車で走っていた。

太陽というのは大抵オレンジか黄色か赤色かそれに近しいどれかの色で語られることが多いが、こと10月末の西日に関して言えば、それはクリーム色と表現するのがいちばん近しいように感じられるのである。

 

 

電信柱は感傷を誘発する最たるものだ。文明、歴史、故郷、古い友人、あの頃の音楽、何気ないワンシーン、残った言葉、表情、そして現在、遠い未来、数珠繋ぎのようにあらゆることが連鎖して脳内を駆け巡っていく。それの発起点となるのが電信柱なのだ。

 

そんな電信柱が失くなってしまったら、わたしはどうしたらいいんだろうか。日本ではあまり積極的に進められてはいないらしいが、海外ではどんどこ電線を地中に埋め、町の景色から電信柱が姿を消してしまっているという。

 

感傷を感じられるものというのは無論電信柱以外の全く別のところにも多少なり有りはするのだが、やはりどう考えてみても感傷の最たるは電信柱に違いないのだ。あくまで私はそうなのだ。

 

感傷というのはなんだろう。それはわたし自身だ。わたしを映す鏡といってもよい。これまでわたしが生きた証を確認するための鏡。ただぼんやりと生きていれば私は私に着目することなどない。感傷があるから私は私を認識できているのだ。

 

 

電信柱が、私が死ぬまでの間だけでも、町に残り続けますように。私が私であり続けられますように。

22歳はまぼろしだと思ってた

22歳になった。なまえの後ろに続くのは、頼りない(22)という表記だ。

 

22歳はまぼろしだと思ってた。

いつだったか、遠い昔、でもものすごく近い時代のこと。あの頃みえていた22歳という年齢は、とても大人びていて、大人になりたいと願う子どものわたしにはきらきらと輝いてみえたのだ。

 

21歳と22歳の女たちで集まったとき、「最近すぐに胃もたれがする。量も食べられなくなった」という話で共感の声が上がった。適当に頷くわたし。身体の衰えか。かなしい話だ。精神と肉体の年齢がどんどんと距離を離していく。わたしの心はまだ13歳のままなのだ。

 

ひとに怒鳴られてしくしくと泣いた。立っていられなくてうずくまって泣き続けた。わたしはまだ13歳だから。

 

大学に入学したばかりの頃、ひとつふたつしか変わらない年齢の先輩たちは、とても大人で、聡明で、美しく、手の届かない存在に思えた。大学四年生。三年前と何も変わらないわたしは、いま、その立場に立っている。

 

年齢を重ねるというのは、精神的成熟を意味しないのだということを理解し始めたのは、それはつまり、成熟したということなのかもしれない。

 

世の大人に対して、大人なのにな、と思った瞬間があったが、そうか、世の大人も皆、心のなかにそれぞれの子どもを宿しているのだとしたら、それは仕方のないことなのかもしれない。

みな、本当は子どもだけれど、大人のふりをすることだけが、少しずつ上手になってきているだけなのだ。

 

みな、助けて、おかあさん、助けて、と思いながら、わたしを愛して、と誰かにすがりながら、ただ、見た目だけが確実に一歩一歩老いへと歩みを進めているだけなのだ。

 

ずっとずっとこどものまま、愛を求めて生きているだけなのだ。

 

 

 

希死念慮を至って真面目に考える

希死念慮がある。

こんなことを言うと、病んでるのかとか何か悩みがあるのかとか暗いだとか重いだとかメンヘラだとか思われる(し実際に言われたりする)けれど、わたしにとってそれはものすごく普通の当たり前の日常の普遍的なことで、ただ、そこに希死念慮があるというそれだけのこと。

 

わたしの身長は女性の平均よりも少し低く、それは生まれ持ったもので己の意志とは関係なく決定されるいわば運命的なものだけど、わたしの希死念慮もそれと全く同じなのだ。ただ、そういう風にして、産まれた。希死念慮がある人間として産まれた。そこに病みも悩みも悲しみもクソもない。

 

退廃的な人生を送ろうと輝かしい人生を送ろうと、死んだらすべてが無になるのだしたら、なんだよ人生、と。

 

たとえばわたしが人類史に名を刻めるような才をもって生まれたとしたら、たしかに生きることで後世の人間のために生涯を捧げるというのも選択肢としてはあるのかもしれないが、現実問題そんな才能は持ち合わせてはいない凡人として生まれたし、そもそも結局死んでしまえばその人類史がどんな動きを見せようと知ったこっちゃない話でもあって、はい、なんだよ人生。

 

 

ただわたしは生憎なんだか気使いの人間であるようで、自分のせいで他人を悲しませることをひどく嫌っているので、死ぬことで誰かを悲しませたり、最悪他人の人生をぶち壊したりしてしまうのは本当に避けたいことなので、まあ生きるか、とその程度の心持ちで生きている。

わたしにとってわたしの人生はどうでもいいものなのだけれど、こんな人間をあたたかく見守り育ててくれた両親への恩や不器用ながらも寄り添ってくれた兄弟への感謝や親しくしてくれたすべての友人たちのことは、死んだらまあ無だから知らねーと無下にできるようなものでは、決して、決して、ないので、生きている。

 

ただ、基本的にはわたしはいつだって死にたいきもちと共生しながら生きているし、こんな話をすれば大抵かなしい顔をされて申し訳ない気持ちになるが、ごめんこればかりはわたしにもどうしようもないのだ...わたしとて本当は身長が160cm欲しかったし死について考えない人生というものを一度生きてみたかったと思う、でもそんなこと言ったとて現実が変わるわけではなく、ごめんなさいと思いつつもでも仕方ないんだ解らなくていいから許してくださいと、そう考えながら、ただこの人生というものを生きてみている。

 

わたしの希死念慮はこのようなものです。

死にたくなったら電話して、を読んで、どうしても書きたくなってしまったんだ。

 

 

がんばらないをはじめる

布団に入って目を瞑り、眠れるのをぼうっと待っている

 

得体の知れない涙が右の頬を伝っていく

 

起き上がって薬をのみこみ 机の上に不規則に積み上げられた本のタワーをみつめる

 

そんなことをしていると、何某かに引っ張られていきそうになる

 

わたしを 何が どこに連れていこうとするのか

わからないけど、時折、その引っ張られる感覚を肌で感じることがある

 

 

 

わたしは、孤独の人間で、孤独を真に愛していて、孤独を心から憎んでいる

 

夜のあいだ 部屋と外界をつなぐ窓の隙間から

わたしの魂が逃げ出すのを感じる

 

夜のまちをわたしは浮遊して

さまざまの生活を観察している

 

愛に似た何かを必死にもとめあうひと

永遠を信じるふりをするひと

自己憐憫にかられるひと

同じように浮遊するひと

 

いろいろなひとがいて すべてちがって すべて美しく すべて惨めで それがひとで、生活で、いのちなんだと思う

 

眠れない夜に

鼓動は激しく 手は震え

ああまたか、と項垂れる

 

ひとが消えては現れ 

人間関係は流動的で

 

 

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恋人なのか恋人じゃないのかよくわからなかった人と、ひとまず「友だちに、戻ろっか」とはなした

 

でもそんなことはほんとうになんでもないことだったから、やっぱりわたしは恋愛ってすごく苦手、というか向いていないというか、興味があまりないのだろうなと

 

いまだに 何でもかんでも恋愛にこじつけられるのは嫌い

人生は恋愛が全てじゃないでしょうがと

 

わたしは他人に興味がもてるほど 自分をゆるせていないのだと 自分のことで精いっぱい

 

そうおもう自分もいる

おもわない自分もいる

 

 

 

処方された薬は1日に1錠という約束なのに、ある夜に残っていた10錠をいちどにのんでしまった

 

次の日、いつもとなんら変わらないからだがそこにあって絶望

いのちを終わらせるためには3桁は必要なのだとその1週間後に知ることになる

 

 

自転車にのって病院へ行く

夏の暑さと秋を知らせる香り

立つ 漕いで 漕いで 漕いでゆく

左脚に体重を つぎは右脚に 

今度は下り坂だ

風がつめたくて気持ちがいい

季節が変わった、と実感する

かなしくて叫びそうになる

叫んでいる

 

くすりをもらった なんだか元気で調子がよかったから つぎは1ヶ月後に と ニコりと笑う、わたし

 

夜 死のうかなと思う、わたし

 

今度こそは 1日に1錠の約束を守りましょう

わたし わたしとの指切りげんまん

 

守れなかったら 針を千本

受けてたとうじゃないか

 

 

くすりがないからと 徒歩45分のところにある薬局まで 歩きで 太陽が沈みきった真っ暗闇の中買いに行ったやつ 残ってるし 2つのみこむ 

病院のおくすりは 未来のわたしのために

 

オイ!

 

大丈夫 明日からきちんと

ちゃんとしたくすりを

1日1錠 まもります

 

 

夜も朝も基本的には気が狂いそうで

わたしが正常でいられるのは

ここのところは夢の中だけで

ああ最悪だ 最悪だ と涙を垂らしながら

こんなわたしでごめんなさい

人間として最低でごめんなさい

と誰でもない誰かに謝りながら

そういうことを毎日欠かさずやっていて

人生とはなんだろうかという哲学が

頭の中で錆と化して二度と元通りにならず

ただたのしい側面もあるこの現実のことを

音を立てずに叫び嘆き怒り哀れんでいる