記憶と記録

雑記、詩、遺書

車窓から

知らないうちに季節が変わっていた。

 

待ち合わせ場所へ向かう車窓から田舎の住宅街を眺めていたら、ふと日記を書きたくなった。泣きそうになったからだ。

年齢のせいか、季節の変わり目だからか、不安定な情緒のせいか、生まれ持った特性か、その理由は分からないが、最近はなぜか泣いてばかりなのだ。

一昨日は浸水した住宅街の映像を見ながら泣いていた。久しぶりにテレビをつけたのに、結局は悲しくなって10分も経たずに再度電源ボタンを押すことになった。

 

そういえば、テレビを観るたびに「テレビを観なくなったなぁ」と思っている。齧りつくように観ていたのがとうの昔のことのように感じる。周りにもテレビを観ないという人は多く、調べたところによると主要局では専ら視聴率が低下しているようだ。

オンラインの合同説明会で、あるテレビ局の説明会に参加した。質疑応答の時間で「テレビ離れに対してどのように考えているか、どのような対策をとっているか」という旨の質問が取り上げられた。珈琲を飲みながらぼんやり眺めていたわたしは、浮遊する思考の中で"鋭い質問だなぁ"と感心していた。わたしの目が覚めたのは、それに対する人事の女性の回答を聞いたからだ。

その女性はキッパリとこう言った。「世間ではテレビ離れが〜と言われていますが、実際そんなことは無いんです...。」

"ああ、この会社は駄目だ"、回答を聞いてわたしはそう思ってしまった。(わたしが志望したところで、その会社からお祈りされるであろうことは重々承知していますが...。)

テレビの普及率は半端じゃね〜ので、数%視聴率が下がったところで、何百万という数の視聴者を確保したままでいられることは確か、だから言いたいことは分からんでもない...。

だけど、ひとこと目にそんなこと言っちゃダメじゃない?そう感じてしまった事実は変えられない。現実から目を背けるような、そもそも現状を把握できていないような、テレビ離れした人を切り離すような、PDCAサイクル回せてる?と思っちゃうような、言い方。

人事の女性はその言葉を発した後に、付け加えるようにその"対策"も示していたが、もはやわたしにその言葉は届かなかった。

 

身近な人間関係でも、こういうことって少なくない。誰かが発した一言でそれまでの関係が嘘だったかのように崩れていく、そんなこと。

わたしの信頼の門は開いているのかどうか分からないくらいには狭くて、そのせいで門から入る人はほんの一握りなんだけど、そのおかげで門から出る人は本当に少ないんだよね。

門を大きく開けている人は、わたしとは比べものにならないくらい中が賑わっていて、すごく楽しそうで、わたしはそれをいつも指を咥えて眺めている。だけど現実は門から出て行ってそれっきりの人もそれなりにいるのかもしれない。

 

 

人が目の前から消えるときは本当に一瞬で、ネットが普及した今は特にそれを感じやすい。

ボーダーラインは千差万別で、どのジャンルのどの高さにボーダーラインを引いているのか、というのはただ仲が良いだけでは判断できない。

いつ誰がどんなタイミングで姿を消すか分からない今、わたしが根拠なく信じられるのは、自分と、家族だけだ。

 

 

待ち合わせ場所で、今にもはち切れそうなリュックサックと手土産を抱え長椅子に座っていた。根拠なく信じられる人との久しぶりの再会に胸を躍らせていた。

人と関わるのが得意でないわたしにとって、何でも気兼ねなく話せてしまう、顔色や場の空気を気にする必要のない彼女は、親友のような存在なのだ。

 

 

 

わたしは彼女に会うたびに、「これで大丈夫だ」と根拠のない自信がわいてくる。

 

 

ハイヒールを履いた黒髪の女と、サンダルを履いた白Tの男。荷物を届ける配達員と、長袖の繋ぎを着て作業する男達。ベビーカーを片手に電車を眺めるお姉さんと、飲食店で働く気立ての良いお兄さん。不機嫌そうなバスの運転手と、中腰になって犬に話しかけるおじさん。神社で結婚式を挙げるカップルと、その写真を撮るカメラマン。

 

ああ、もう大丈夫だ。これで良いのだ。周りと比べるな。俯瞰して世界を見ろ。世界の中の一人でいられれば、大丈夫なのだ。

 

わたしはもう、泣かないだろう。